世の中に他人は存在せず、すべて自分自身の鏡

どうも、皆さん、こんにちは!

 

ココロワークスラーニング 

福井 久です。


6月になって

天気予報によりますと

 

今週、東京エリアに

台風が

 

近づいてくるようですよ。

 

梅雨のシーズンは、

曇りがちで、

 

じめじめしがちですが、

たまの晴間が

 

凄く有難かったり、

晴れて暑い日が続くと、

 

雨降りが有難かったり、

全く我がままなものですね。

 

私はサラリーマン生活を

やめた今現在、

 

まったく

 

悠々自適な時間を

過ごさせて頂いますが、


一人の時間を

過ごしていると、

 

たまに妄想に

憑りつかれること

 

があります。


やはり、

何度も

 

“記憶がループ再生”

されるのは、

 

強い感情が動いた、
私がすごく怒りを

 

覚えたシーンです。


それらの

 

記憶を取り出して、

分析してみると、


①約束を守ってもらえなかった


②傍若無人に振る舞われた


③大切に扱ってもらえなかった


時に、

 

すごく怒りがあったこと

が記憶にあります。

 

 その記憶の

具体的事例ですと、

 

当時、教育担当で

あった私に対して、

 

販売・営業統括責任者が


“そんな教育・研修プログラム

なんかよりも、

売り上げ実績・セールスが

大切なんだ。”


“知識なんかあっても、

物は売れないんだよ、

だから時間を

最小限にしてくれ”

 


とか、

 

営業マン時代の

私に対して、
“営業成績がよくない奴に、

この会社での

活路はないよ、

転職したら!?”

 

とか、


“お客の都合

なんてどうでもいいの、

重要なのは

今日

いくら売り上げるのかだよ”


など、当時、

私は上記の

 

セリフ対象者に

激怒したことを

 

はっきり覚えています。

 

 

すべて①~③が

守られなかったと

 

思われます。

 

では、なぜ私が

激怒するに

 

至ったのか、を

考えてみると、

 

①~③を

 

自分自身に

厳しく禁じている

ということ

 

に気が付きました。
 

 

 

①約束を

守ってもらえなかった 

 

→ 自分自身には、

“他人との約束は

絶対に守らないと

いけない

 

でないと、

信用されない、

嫌われ、

共同体・集団で

やっていけない“ 、

 

と考えて、この行動を

自分自身に対して

強く禁じている

 

 

 

②傍若無人に

振る舞われた 

 

→ 自分自身には、

” 傍若無人に振る舞うと、

他人から嫌われ、

承認されなくなる、

生きていけなくなる“

 

と考えて、

この行動を自分自身に

対して強く禁じている

 

 

 

③大切に

扱ってもらえなかった 

 

→ 自分自身には、

“他人を大切に扱わないと、

他人から

大切に扱われなくなり、

孤立する”

 

と考えて、

この行動を自分自身に

対して強く禁じている

いずれも、

自分自身に対して

 

強く禁じていることを

目の前に現れた人達が

 

堂々とやってのけるから、

私の心での会話、

作り出される感情は、

 

“そんなことやったら、

他人に信用されないよ、

嫌われるよ、

承認されなくなるよ”

 

 

などであり、

それでもその行為を

 

堂々とやっている

目の前の人達を見ていると、


“私は恐怖を感じる”

 

もしくは

 

“私は羨ましい”

 

と考えていて、

 一番表層で

 

表現している感情は、

 

“激怒(怒り)”

 

であるということに

気が付きました。


ですから、

 

本当は激怒していた

のではなくて、

 

“すごく怖かった”

 

もしくは

 

“すごく羨ましかった”

 

ということだと思います。
 

これらの行動を

行う自分自身は、

 

私の無意識の中で、

 様々な体験・経験を通して、

 

快・不快の法則を創り出し、

それに基づいて、

 

“この行為を他人前で

行うと、恐怖を感じる

 

(他人を不快にさせてしまう)

から、やらない方がいい

 

自分が行うことを固く禁じる)”

 

と考えて、

この行為を行う自分自身を

 

分離されて、

無意識の奥底に葬り去り、

 

思い出されないように

されていた。


ところが、

 

私に降り掛かった

出来事で、最初は、

 

“なんで、こいつは私を

怒らせるんだ”

 

と思っていたら、

実はなんと、

 

その激怒させる奴は、

 

過去に

無意識の奥底に

 

葬り去った自分自身で

あったということが、

 

非常によく理解できました。


もし私が、

 

①~③の行為に対して、

自分自身に制限を

 

持たずに、

自らも実行していたら、

 

反応は起こらなかったと

思われます。


固く禁じているからこそ

反応が起きたと

 

考えられる訳です。

 

自分自身の中に、

 

“許容できる自分”

 

 

“遠い過去に分離した

許せない自分”

 

が存在し、

同時に2つ存在するので、

 

激怒している対象者は、

 あくまでも他人ではなく、

 

他人に投影されて

 表現されている

 

自分自身だということが

よく理解できます。

自分自身の潜在意識の中に

存在していると、

 

存在さえ認識できず、

とても理解しづらいので、


片側を外に

取り出し加害者(他人)として、

 

もう片側と

被害者(自分自身)として、

 

被害者の立場を

取り続ける自分自身は、

 

“悪いのは相手で、

私は悪くない”

 

と主張し続けています。


しかし、

“自分自身が被害者である”

という立場を取り続ける限り、

 

 このようなイベントは

決してなくなることは

 

ないと思われます


このようなイベントが

起きた時に、

 

“被害者を装っているけれど、

 本当は約束を堂々と

 

破りたかった自分、

本当は傍若無人に

 

振る舞いたかった自分、

本当は他人を

大切に扱わない自分”

 

いるということ

 

“被害者も加害者も

なく全て自分自身の

一部分である”

 

ということを


認めることができれば、

問題/課題など

 

最初からなかったということが

認識することが出来る訳です。


また、こう書くと、

 

①約束を

守ってもらえなかった

 

②傍若無人に

振る舞われた

 

③大切に

扱ってもらえなかった、

 

などに遭遇した際、

怒りの感情を

 

使えなくなるんじゃないのか!?

 

と思われる方が

いるかもしれません。

 

ごもっともです。
  

それについてのは

また次回にさせて

 

頂きたいと思います。