先日、
元プロ野球選手 清原和博さん
が執筆された“告白”という本
が上梓されました。
野球では4番打者というのは、
そのチームを代表する
強打者・長距離バッターで
あることは
当然で、チーム全員からも、
またファン・応援団からも
期待されて、その期待に
十分に応えるだけ
チャンスの時に結果を残す、
期待に応えて得点源になる、
からこそ、
周囲の人達
(チーム全員・ファン・応援団)から、
“役割を果たしている”
と
みなされることで、
チームの一員として
承認されます。
ところが、
期待に応えることが
出来ないことが続いたり、
チャンスに不甲斐ないと、
周囲の人達から
凄く期待されていた分、
それは“怒り”に変わり、
容赦ない
誹謗中傷・罵詈雑言に
変貌していく様は、プロスポーツだけ
ではなく、我々の日常生活でも
近似経験・体験が
散見されるものだと思われます。
清原さんの
お話しに戻しますが、
ドラフト会議では
憧れの巨人から
1位指名を受けず、
西武ライオンズに
入団しましたが、
プレーをした
11年間で
チーム優勝8回、
日本一6回の
輝かしい成績を残され、
FA宣言
を行使して、
遂に憧れの巨人に入団。
ところが、移籍1年目は
巨人を優勝させるために
きたのに、“ズタボロ”状態で、
特にチャンスに打つことが
出来ず、チームも
4位で不甲斐ない成績で
終わってしまい、
この不甲斐ない状態に
ファン・応援団は、
選手移動用バスの
窓ガラスやボンネットを叩くし、
火のついたタバコを
フロントガラスに
投げつけられたそうです。
これらはまだ我慢
出来たそうですが、
一番心理的に辛かったのが
“応援ボイコット”
(打席に立った時に
楽器・鳴り物・声援が
全くない状態)
であり、
その瞬間、
“胸が苦しい”
“息が止まった”
大ショックであって、
さらに輪をかけて
屈辱的/侮辱的だった
のが、3番調子が
いい松井選手を敬遠して、
4番清原さんと
勝負する相手チームが
出てきたことだったそうです。
そんな中でも、
“結果を出したい”
“期待に応えたい”
“誰にも打てない、
どでかいホームランを打ちたい”
ともがき苦しんでいたそうです。
身体はボロボロになって、
何度も怪我をするたびに
立ち上がり、
そして今回も不屈の精神で
克服しよう、と思った矢先、
複数年契約で契約が
残り1年あるにも関わらず、
2005年途中に、
古傷の左ひざ半月板を痛め、
出場選手登録を
抹消された後、
球団フロントに
ホテルに呼び出されて、
「来シーズンの君の
居場所はない」
「もう来季、
君と契約する気はない」
と3分もかからず、
“お疲れ様”の一言も
なく戦力外通告を
されてしまった。
本当に寂しかったそうです。
我々、
人間が所属している
共同体
(家族・学校・会社・
地域・チームなど)
の中で、
最初は“自分らしさ”を
最大限に表現するだけで、
周囲からの承認・賞賛が得られた。
自分自身なにも加工することなく、
去勢を張ることなく、
自己表現するだけで、
周囲に受け止められた。
しかし、
加齢ともに
基礎体力、集中力の低下し、
それに加えて、
全身の古傷が疼き、
周囲から期待度が
加速度的に
増加していくと、
あれだけ
“出来ていたこと”
が
“出来なくなる”
という現実を
突きつけられる訳です。
つまり、増大した
周囲の方々の期待に応えるために、
必死に努力して
“受け入れられる状態”を
保つ必要性が
出てくるように
なってしまいます。
“本当の自分・
ありのままの自分”
と
“周囲の方々に
期待されている・
必要とされている自分”
に
ズレがあることを認識し、
そのズレを埋めるために、
ありとあらゆる
出来る限りの努力をしても、
そのズレが埋まらないと、
とても苦しいし・辛いと
感じると思いますが、
戦力外通告を
受けたくないので、
さらに辛く、苦しい努力を
重ねるしかないのです。
(私がサラリーマン時代、
ワーカホリック・過労が
続いた原因です。)
人格を作り上げてしまう程、
周囲の方々からの
承認・賞賛は
快感であり、
また、
その逆は
恐怖感(戦力外通告)
でしかない。
感情という
強烈なエネルギーによって、
虚像が作り出され、
翻弄された人生を生きている、
自分以外の
何者かになろうとしている、
それが我々人間なの
かもしれませんね。