観劇『豊饒(ほうじょう)の海』より

“今年は心理セラピストとして、

いろいろな人間の価値観を

 

感じるために、

映画や舞台芸術を

 

鑑賞する機会をつくろう”

 

と、

 

自分なりに目的を持って、

サラリーマン時代では

 

考えられないぐらいに、

映画・演劇・

 

美術品・芸術品

などを鑑賞してきました。

 

今回は『豊饒の海』。

三島由紀夫の

 

最後の長編小説であり、

この小説の最後の入稿日に、

 

陸上自衛隊市谷駐屯地で

割腹自殺を図った

 

いわゆる三島事件でも

有名になった背景もあります。

 

今なお、日本文学史に

大きな影響を与えて、

 

語り継がれる

ストーリーは、

 

とても突飛であり、

知れば知るほど、

 

“その時代を生きるには

早かったのかな”

 

っていう

 

印象を持ち、人の心理に

関わる人間として

 

生涯行動を

分析すると、

 

人間が持っている様々な

パーソナリティが

 

写し出されて、

とても印象的で、

 

衝撃的で、魅惑的な人格で

あると感じます。

 

三島由紀夫を

象徴するような

 

エピソードとしては、

(あなたの中の異常心理;

岡田尊司先生著から引用)

 

完璧主義であり、

一語一句完璧な

 

文体と極めて

高い完成度の高い作品で、

 

ライフスタイルや

性格にも完璧主義が

 

染み透っていたことが

伺い知られている。

 

三島は約束事を

重んじることで

 

有名であった。

 

どんなに仕事が

立て込んでいても、

 

締め切りを

守らなかったことは

 

一度もなかった。

 

中略)

作曲家 黛敏郎と

オペラの仕事を

 

した時、黛の作曲が

締め切りに間に合わず、

 

黛は詫びを入れ、

上演時間の延期を

 

申し入れたが、

三島はその作品の

 

上演自体を取りやめた。

 

以降、

 

三島は黛と絶縁した。

最初に予定された

 

通りでなければ、

妥協してまで

 

行おうとせず、

むしろ白紙に

 

戻してしまう

のである。・・・“

 

(中略)

完璧主義者は、

頑張り屋である。

 

理想の完璧な達成を

目指して、

 

何事に対しても

人並み以上の努力をする。

 

うまくいっている時には、

それが健全に機能し、

 

・・いったん

つまずき始めると、

 

 完璧主義者の完全を

求めようとする

 

欲求は次第に

変質し始める。

 

下り坂になった時に

脆さをみせやすいのだ。“

30歳代で

日本文学界の

 

頂点を極めて、

毎年ノーベル文学賞候補に

 

挙げられていたにも関わらず、

 40歳からは、

 

“堕ちていく自分”

を感じざるを得なかった

 

三島由紀夫。

 

そんな状況下で、

執筆された『豊饒の海』。

 

劇中、この時代には、

子供の気持ちなど

 

大切にされることなく、 

貴族間の政治的政略結婚

 

のために使われようとしていた

主人公やこの時代では

 

認められない男女間の

道外れた関係(不義)、

 

そして馬鹿正直に、

愚直で日本国を

 

案じていた右翼的青年、

そして最後の方で全ての場面を

 

回顧するシーンがあり、

セリフとして、主人公の存在を

 

懐かしいと思うところが

ありましたが、それに対して、

 

“さて、誰のことを

いっているんですか?”

 

“夢でもみたん

じゃないですか?”

 

という応答するセリフ。

 

全ての登場人物の

心理的な微細な

 

心の動きに対する

セリフがまるで

 

見てきたように、

知っていたかのように、

 

表現されていること

 

が本当に印象的で、

決して、考えて、想像して

 

書かれている感じではなかった、

と思いました。

 

最後の回顧シーンのセリフも、

私には

 

荘子の“胡蝶の夢”を

想起される内容で、

 

“今、

現実を生きている自分が

 

夢を見ていたのか、

物語の中に出てきた

 

主人公が“私”という

夢をみていたのか“、

 

この

人生を生きている人間は、

 

夢が現実か、現実が夢なのか?“

少し霊性(スピリチュアリティ)の

 

世界の表現も

含まれていると思いました。

 

只々、

 

解釈のやり方によっては、

様々な解釈が出来て、

 

不可解なところも

残った部分もありました。

 

では、

 

“なぜ三島由紀夫が

思考レベル(想像/類推)

 

での文体ではなく、

この時代背景の

 

物質世界的な表現や

回顧的表現、

 

霊性な世界にまでも、

全ての登場人物の微細な

 

心の動きを書き綴ることが

できたのか

 

 

 

 完璧主義を

貫き通すことができたのか”

 

“このような才能を一般人に

顕現させることは

できないのか”

 

という疑問が

私にはわいてきます。

 

三島由紀夫が生きた時代を

支配した渦巻く

 

集合意識の濁流に、

決して流されずに、

 

識的で、どこまでも

“愚直で、どうしようもない

 

ほどに誠実だった

 三島由紀夫だったからこそ、

 

人間の本能的な

汚さ・醜さ・グロテスクさ・

 

利己的な人格を

 認知することが出来て、

 

また反対に人間の精神の

美しさ・気高さ、

 

 そして宿命という渦巻く

集合意識の濁流の前に、

 

人間は本当に

なにも出来ず、

 

只々無力であるということを

思い知らされたのではないか、

 

だからこそこの作品の

全ての登場人物を通じて、

 

まるで見てきたかのように、

知っていたかのように、

 

文章に表現することが

できたのではないか

 

 

私は思います。

 

様々な人格を経験することで、

感情は共鳴してしまいます。

 

それが時に、

 

”苦しく“”しんどく“、

取り乱してしまうことは、

 

我々、一般人でも

日常生活で

 

発生することです。

 

三島由紀夫は

その感情を同一化することなく、 

どこまでも完璧に

 

写実的に、書き綴ることが

できたのかもしれません

 

私は心理セラピストとして、

両極の人格をもって、

 

生き辛さを感じてしまった

クライアント様に

 

面会させて頂いております。

 

ただ、セラピーを進めていくと、

クライアント様の中にいる

 

両極の人格は、

間違いなく、

 

私の中にもいる人格で

あると感じます。

 

心理セラピストとして、

セラピー中は感情が

 

られない様に、

日々、トレーニングを

 

重ねていますが、

これら両極の人格を

 

もった葛藤を

理解するためには

 

パラドキシカルな

表現になりますが、

 

 この感情を持って、

”苦しく“”しんどく“、

 

取り乱してしまう経験・体験が

必要であると私は思います。