やり過ぎなければわからない

皆さん知っている

孔子が残した名言で、

 

 

 

 

「過ぎたるは

猶及ばざるが如し」

(すぎたるはなお

およばざるがごとし)

 

 

 


意味としては、

 

「やり過ぎることは、

やり足りないこと

と同じくらい良くない」

 

 

という意味の言葉で、

何事もやり過ぎると、

 

かえって効果が薄れたり、

害になることがあります、

 

 

 

 

何事もほどほどに、

中庸(ちゅうよう)

 

大切であることを

教えています

 

 

 

 

この名言は、

日常生活を送っていると、

 

比較的よく出会うと

思いますし、

 

自分で自分に

声掛けすることも

 

あるんじゃないでしょうか?

 

 

 

 

 

 

例えば

 

運動であれば、

一般人がルーティンとして、

 

身体を動かすレベルと

トップアスリートがオリンピックで

 

金メダルを取るレベルは

明らかに違います。

 

 

 

 

 

もし、

 

一般人がアスリートレベルを

やれたとしても、

 

一過性であったり、

疲労感が抜けなかったり、

 

怪我をしたりしてしまいます。

 

 

明らかに、

 

オーバー

トレーニングですよね。

 

 

 

 

それ以外にも、

 

 

子どものためを思って

何から何まで親が

口出ししていたら、

子どもが

自立できなくなってしまった。


愛情も過剰すぎると

逆効果になる。

 

 

体重を落とそうとして

極端に食事を

減らした結果、

体調を崩したり、

リバウンドしたりした。


健康のためのダイエットも、

やりすぎれば不健康に。

 

 

子どもが外に出るたびに

心配しすぎて

連絡を強要し、

子どもが窮屈に

感じるようになった。

 

心配も愛情から来るが、

過剰になると

信頼関係を損なう。

 

 

 

皆さんにも、

 

「過ぎたるは

猶及ばざるが如し」

 

経験があると思います。

 

皆さんの

やり過ぎてしまった経験は

どんな経験でしょうか?

 

 

 

上記でお示ししたように、

 

この

「過ぎたるは

猶及ばざるが如し」

 

という言葉は、

『論語』の「先進」篇にある

 

孔子の言葉であり、

最後の結びの言葉として、

 

「中庸」(ちゅうよう)

過不足なく、偏りなく、

 

調和が取れた状態であり、

孔子思想について、

 

もっとも重要な

概念であると説かれています。

 

 

 

 

 

ただ、

私はこの

 

「過ぎたるは

猶及ばざるが如し」

 

違和感を持ちました。

 

 

 

 

 

この

 

 

「過ぎたるは

猶及ばざるが如し」

 

 

 

注意喚起されて、

最終目的地は、

 

“中庸”とよばれるところで、

真ん中のことです。

 

相反する両極、

どちらのエネルギーにも

影響を受けない状態です。

 

 

 

 

 

私が不思議に感じたのは、

両極に達しなければ、

 

真ん中など決してわからない

ということです。

 

 

 

つまり、一度や二度、

やり過ぎを経験して、

 

極がわからなければ、

中庸(ちゅうよう)には

 

絶対にたどり着けない、

と思いました。

 

 

 

 

私の周囲の人達は、

 

“「過ぎたるは猶及ばざるが如し」

だから、そこそこしたら止めよ”

 

 

とか、

 

 

“やりすぎはよくない、

って名言があるから、

ここでやめとこう”

 

 

 

とか、

この言葉を盾にとって、

 

そこそこで止めてしまって、

安全圏の中から

 

出ようとしない人達がいます。

 

 

 

 

ですから、

両極を知るために、

 

一度や二度、

おそらく実際には、

 

数え切れないほどの

やり過ぎ体験をして、

 

痛い目にあって、

やっと自分自身にとっての

 

やりすぎレベルが

認識できると思います。

 

 

 

 

この前提があって、

初めて過不足なく、

偏りなく、調和が取れた

中庸(ちゅうよう)

 

状態がどのようなものなのか、

理解できると思います。

 

 

人間が上述のような

相反する出来事を

 

 

体験した時、

 

 

どちらかの価値判断を

として、

 

どちらかの価値判断を

として、

 

 

必ず偏っている状態です。

 

孔子思想が重要だと

説いている

 

中庸(ちゅうよう)

たどり着くためには、

 

自分が否定していた

極も理解する

必要があります。