オトンを偲んで

先日、529日は、

オトン:父・清(きよし)の命日で、

 

本来ならば、

〇×回忌法要とかで、

 

親戚や故人の友人を集めて、

一席もつことが慣例ですが、

 

父の妹2人も身体が悪く、

寝た切りなので、

 

特に何も行わず、

ただ故人を偲んで供養する

 

気持ちを持って過ごしました

 

 

 

 

オトンは昭和9年生まれ、

大阪堺市で商事会社を

 

営んでいた一族に

生まれました。

 

 

 

 

昭和20年、

第二次世界大戦が

 

終戦したとき、

堺市は大空襲に

よって至る所焼け野原、

 

その時、オトンは11歳。

 

 

 

 

商事会社の経営権は、

親戚たちに乗っ取られて、

 

幼い頃から

何一つ不自由なく

 

育てられていた

祖父(オトンの父)は、

 

 

 

“おぼっちゃん”だったので、

生き延びる

 

手段を何もしらず、

経営権を取り返す

 

覇気もなく、

当時、一家

 

祖父・祖母、

オトン・妹2人は、

 

路頭に迷ったんだそうです。

 

 

 

 

 

 

 

そして、

なんとか中学校を卒業して、

働いて、

少し時間的な余裕が

出来たので、

夜間高校に通って卒業。

 

 

そこから、

旧ミノルタカメラ

 

(現コニカ・ミノルタ)で、

レンズ研磨職人として、

 

42年間会社員を

やっていました。

 

 

 

この令和の世でも、

難しいといわれる

 

“十万分の1ミリ”を

指先の感覚を頼りに、

 

削っていたそうです。

 

そんなオトンが

よく言っていた言葉は、

 

 

 

“東証一部上場の

企業に入れ”

 

“学歴がなかったら、惨めや”

 

 

というものでした。

 

 

おそらく、オトンは、

会社で学歴差別を

 

受けていたんだと

容易に想像できます。

 

 

オトンが亡くなった後に、

オカンから聞いたのですが、

 

2回ほど会社で大喧嘩して、

“辞める”と吐き捨てて

 

家に帰ってきたことがあった、

と言っていました。

 

 

 

 

姉が結婚して家を出て、

私が就職して家を出て、

 

オトンとオカンの

穏やかな日々は、

 

長くは続かず、

オトンが認知症を

 

発症して、

だんだんと

 

妻(オカン)がいること、

 

子供(姉・私)がいること

 

は忘れてしまいました。

 

 

毎朝起きれば、

知らない人が家にいるし、

 

介護サービス員の方々も

覚えられないので、

 

だんだん暴力的になり、

オカンと口喧嘩から発展して、

 

最後は投げ飛ばして、

骨盤骨折させてしまったり、

 

介護サービス員にも

暴力的になってしまったことで、

 

精神病院の隔離病棟に

入院することになりました。

 

 

その後、10日ほどで

息を引き取りました。

 

 

 

 

遺品・遺産整理をしていると、

お金に苦労した

 

オトンがあとに残す

人達(オカン・姉・私)が

 

苦労しないように、

定年した後(26年間)、

 

ほとんど使わずに、

置いておいてくれたこと

 

がよくわかりました。

 

 

 

亡くなる前、

3年間は

 

認知症だったので、

まともな会話に

 

なりませんでしたが、

まだ認知が

 

しっかりしていた頃は、

幾分、会話をしましたが、

 

そんなにベラベラ喋る

タイプではないので、

 

話した内容の

記憶はありません。

 

 

 

 

 

テレビが好きで、

映画が好きで、

海が好きで、

家族が好きで、

 

 

一生懸命に、

真面目に、

守ろうとしてくれたオトン、

 

 

戦後焼け野原で

希望も見出せない

 

ところから、

歯を喰いしばって

 

立ち上がってきたオトン、

 

 

地位も、名誉も、学歴も

なかったオトンだけど、

 

 

文字通り、

精一杯生きた

人生だったんだと思います。

 

 

やり残したことや

後悔もきっとあったと思うけど、

 

精一杯生きたという

言葉ピッタリの

人生だったと思います。

 

 

 

今晩は、

オトンが大好きだった、

アイスクリーム“あずきバー”を

食べながら、

 

 

オトンを偲びます。

 

ありがとう、

 

おおきに。